50周年企画「対談インタビュー」 第9回(最終回) 若林顕x弓削田優子

50周年企画「対談インタビュー」
9(最終回)
若林顕x弓削田優子

50周年記念対談シリーズ最終回は、ピティナが小さな「ピティナモデル教室」として誕生した頃、幼い時期をともに過ごした皆さんに語っていただきます。現在、ピアニストとして活躍中の若林顕氏、ピティナっ子の弓削田優子氏にお話を伺いました。
いよいよ、2月28日記念コンサートの開催です。ピティナ誕生期に想いを馳せながら、皆さんで50年をお祝いいたしましょう。

聞き手:福田成康(ピティナ専務理事)/福田優子(「ピティナモデル教室」OB)

ゆったりとした空気が流れていた1970年代

弓削田先生がピティナモデル教室に入ったきっかけは?皆さんとは同門なんですね?

弓削田

コンペでは、講評について審査員に質問できる場があり、たまたまお見せした採点票の福田靖子先生のもので点数が高かったので、その場でピティナモデル教室に誘われました。当時は、近所の保坂千里先生についてコンペ初参加でしたが、全国大会だからとカリカリしない、ゆったりした空気が流れていましたね。ありのままでよい、みたいな。その後、松?伶子先生、金子勝子先生にも習うようになりました。3つ違いの福田優子さんとは、ピティナモデル教室でお会いしたのが先で、その後、金子先生のレッスンでもご一緒でした。金子先生は、いつも隣で歌って下さるレッスン、お茶会などもありとても自由な雰囲気でしたね。6つ違いの若林顕さんとは、松﨑伶子先生のモデル教室で順番が前後でした。

ピティナ50周年を振り返る 2000年代~
年齢に関係なくともに学んだ「聴音」と「鑑賞」
若林

そうそう、このテーブル(!)。まだあったんですね。子どもにとっては、ソファーとちょっと低いテーブルがあって、いまでいうBARのような大人の雰囲気の内装でしたね。そこで学んでいたのですよね。

福田成

79年迄はレストランもやっていたので、その名残ですね。

若林

子どもには不思議な感覚でした(笑)。

福田優

指揮者が異なる同じ曲で"聴き比べ"をやりましたよね。小学生だった私には違いが分からなかったけれど、先生が「けんちゃんどう?」と尋ねると、「1番と2番がカラヤンで、〇番が誰それで・・」みたいに答えていて。やっぱりすごかった。そのころはよく分からなかったけれど、靖子先生は大事なことをさらっとやっていらしたのだなと思います。

若林

鑑賞教室、なんとなく覚えていますよ。

福田優

和音の構成など難しい話でも、繰り返し聞いていると、いつかつながることがあるから、浴びるように聴いておきなさい、と言われていましたが、後で理論が追いついたときに、とても助かりました。当時はちんぷんかんぷんだった私が、学生時代に和声学で困らなかったのは、本当に靖子先生のおかげです(笑)

弓削田

6つも7つも違う年の方と、聴音が取れなくてもいいから、と一緒にやっていましたね。それこそ「浴びるように」聴いていたのだと思います。子どもたちが作った曲に対して、主音と導音、不完全終始などを教えて頂いたり。後になったら結びつくから、というのは本当ですね。大人っぽい子や、哲学書を読んでいる別世界の子、遠くから通っている子など、いろいろな方々がいました。

福田成

当時それは、どういう感覚でしたか?

若林

楽しみ、でしたね。自由な感じでしたから。重荷になる、追い込まれるようなことはなかった。

福田成

エリート教室、の認識は?

全員

いや、全くない(笑)

若林

ここ以外、通っている教室はなかったんで。中1で金賞を頂いた時は、作曲家でピアノも教えている菊本先生についていましたが、それから福田先生の紹介で、播本先生と松﨑先生にアトランダムに(笑)、習うようになりましたね。海外の先生が来られるとレッスンを受けることもありましたが、それ以外は通っていませんでした。中学時代の2年半位のことなんですよね。相当濃いです(笑)。運命を決定づけるくらい。

入賞者コンサートの思い出
若林

アメリカへ演奏旅行にもいきましたし、当時はピティナのコンサートがたくさんありましたね。

弓削田

私も褒賞の演奏旅行で遠くまで行かせていただきました。村川章之さん、石田多紀乃さんと3人で回りました。秋山美佳さん、岩野めぐみさん、近藤麻里さん、堀節子さん・・・など、三重県からもすごい方々が続々出ていました。

若林

この写真は、9月21日の入賞者コンサートですね!バラードの4番か何かを、ボロボロになりながらに弾いていた(笑)

弓削田

子どもながらに本当に感動したのを覚えています。

福田優

何といったらいいか・・昼休みに練習している若林さんの音がとにかく綺麗で!全然聴く耳も育っていない私にも、素晴らしい演奏だと肌で感じました。鑑賞に興味のなかった私が、「もっと聴いていたい!」と、そう思ったのは、若林さんが初めてでしたね。

若林

僕、そういえば、弓削田さんに「上手だったわよ。」と言ってもらった記憶があるなあ。

弓削田

・・本当ですか(笑)。当時から、中学生なのに既にすごいレパートリーでしたね。

レパートリーを広くもつこと
若林

レパートリーは広く、といつも言われていたのでね。とりあえずのっけて、という感じでしたが。

福田成

皆さんは、小学1、2年生の頃は何を弾いていたんですか

弓削田

モーツァルトの作品やインヴェンションなどですね。コンサートで弾ける曲がモーツァルトのソナタ1曲だった時、「いつも弾ける曲を持っていないといけないのよ! 100曲くらいもっていないと!」と靖子先生に言われましたね。

若林

やたら難しいのをやっていましたね。

弓削田

すべて未知の世界で、すごいと思った。

福田成

周りに凄い人がいると、感化されますよね。ピティナは音楽教室の交差点だから、自前で教室を持つべきではないと、2008年度でピティナモデル教室は終わりましたが・・・

福田優

エリート教育という意味では、わりと頻繁に海外の教授を招いて公開レッスンを行ったりしていましたね。それは、事務所がいまの場所へ移ってからも、しばらく残っていたと思います。

福田成

いまは、福田靖子賞マスタークラスに続いている。その前身だったんですね。いま思えば、低年齢層のためのそういうカリキュラムがあったんだな、と。どうやったらいいのかな。

音楽以外のマナーは特に大切に
弓削田

それから、靖子先生はステージマナーや、衣装などに厳しかったですよね。お礼状はきちんと書きなさいね、身だしなみはきちんとしなさいね、と。当たり前でも知らなかったこと、音楽以外の面もいろいろ教えて頂きました。

福田優

コンペの表彰式での審査員の講評の時や、公開レッスンなどのあとは、「今日おうちに帰ったら、必ず先生にお礼状を書きましょう。字の書けない子は、電話で御礼をいいなさいね」と、繰り返しお話されていたので、"御礼はすぐに!"、"お詫びはもっと早く!"(笑)が身に付きましたね。

弓削田

靖子先生からいろいろと学んだステージマナーは、生徒を教えるようになってから、次の世代へと引き継いでいきたいと思って、生徒に話しています。靖子先生のお考えがいまもずっと生きていますね。

高校からはそれぞれの道に・・
弓削田

私は、芸高に入ってからは、高良芳枝先生に師事しました。先生のレッスンはとても厳しくて、できるまで何時間でも見て下さる・・・。言葉は丁寧に、でもおっしゃることは厳しかったです。最初の一音に40分かかったことも(!)

福田成

それを皆、クリアしてきているんですね。やめたい、とおもったことは?

弓削田

そういう選択肢はなかったです(笑)。「少しはまし。」と言われたときは、やったあ!と褒められたと思いました(笑)。常に怒られていたんで・・。それでも、先生の深い知識を心から尊敬し、先生を信じることができる安心感がありました。試験の直前、練習している部屋に急にいらして、一言アドヴァイスを下さったり、愛情の深い御指導でした。楽譜の読み方も、それはそれは、細かく教えていただきました。

福田成

若林さんは高2で日本音コンを受けて入賞したんですよね。それからエリザベートまでは?

若林

高校からは田村宏先生に教えていただくようになり、高校2年で日本音楽コンクールに出て2位に入賞しました。22歳でエリーザベト王妃国際コンクールに出ましたね。
留学は、東京国際音楽コンクールの審査員でいらしていたハンス・ライグラフ先生が来なさいと。それでいったんです。芸大は4か月だけですぐオーストリアに留学しました。

コンクールのあとは、その人次第。
若林

20歳でブゾーニ国際コンクールで2位に入賞しましたが、コンクールはコンクールですから。20代で終わって、それからは振り出しに戻ります。その後は、その人次第ですね。でも、コンクールの考え方も、1980年代とは違う気がしますね。当時は大事件だった。でも、いまはもっとトレーニングの要素が大きいですね。

福田成

ピティナでは、いまは「コンクールは中間・期末試験」と表現していますね。

若林

新聞にちょっとのった広告、「ピティナ・ヤングピアニストコンペティション」これどう?と菊本先生に言われて出たんですよ。

福田成

その1回だけしか受けていない(笑)。それからが、壮大な係り結びになりましたね。

若林

14歳で受賞して、そして今、51歳で(笑)。また、帰って来られた(笑)。

福田優

そして、今度は、3月1日の課題曲説明会に講師としてお出でになる。今年もまた、贅沢な課題曲説明会になりそうですね。

若林

講師の皆さん、慣れまくっていますよね・・。先サンプルビデオを見ると、皆さん、本当に流暢な説明でいらっしゃいました。

福田成

聴く側の人たちは、全国からの審査員の方々も多いので、もともと耳はとても肥えているんですよ。3月の課題曲説明会がコンペの始業式なら、8月の表彰式が修了式。これも、比較的最近の感覚ですけれど。

50周年の節目に
福田成

今回は50周年対談シリーズということで、これまでに感謝しながら、これから自分が創っていくぞ、みたいな意気込みを、ぜひお聞かせ下さい。もし、福田靖子がいま生きていたら、どんな期待をかけるでしょうね?

若林

弾き続けるように、とにかく弾き続けるように、ではないかな。綺麗な心を、やさしいこころを育てましょう、とみんなに言っていらした。そういう音を感じるような音色、それをよく知っていただく、そういう機会をたくさん作り、どんどん弾いていくのが音楽家の使命ではないかと思います。ルービンシュタインは、亡くなるまで、ずっと進歩し続けました。まだまだ伸びるから、と、それは最後にも言われていたので。きっと、はっぱかけられると思います。
「世界で活躍しなさい」と。

弓削田

子どもの時にきいた言葉は大人になった今思い出されます。「こころを育てる」はずっとおっしゃっていた。戦争の時に中国にいらして着のみ着のまま日本に帰って来た。どれだけ素晴らしい物を持っていても、ひとたび何かあったらなくなる、でも、親から受けた教育は決してなくならない。だからあなたたち、これは素晴らしいことなのよ、だから、周りに感謝しなさい、と。 いま、親として、指導者として、審査員として、ピティナといろいろな関わり方をしています。歴史が長い、というのはそういうことなんですね。
子どものときに教わった、ピアノ技術だけでない"こころ"、いろいろなことに関する感謝の気持ち、人間的な基本的なことは、知らず知らずのうちに身に沁みますよね。

福田成

演奏を通じて心に入る、ですね。私自身は、この事業体をどう継続するか、ですが、皆さんは、音楽で何を引っ張るのか、そこですよね。

(2017年1月19日 ピティナ本部事務局にて)
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